鉄人、信じることを考える
最近のお仕事BGM。
小林秀雄講演。
信ずることと考えること 講義・質疑応答
なんとテープ起こしをして
webにアップしてる方がいた。
長いが、引用させて頂く。
この前の戦争で夫が戦死する。
夫人は夫がちょうど死んだとき、幻で倒れたところを見る。そして夫が死んだことを知る。それであとでよく調べてみると幻で夫人が見た同じ時刻、同じ格好で死んでいたことが分かった。
この話をベルグソンは、ある会議でテレパシーの話になったとき、名のあるフランスの医学者にした。そしたら医者はこう答えた。「確かに私はこの話を信じる。その夫人は立派な人格の持ち主で嘘なんか決して言わない人だ。だけど困ったことがひとつある。それは昔から自分の身内が死んだ場合、死んだ知らせが実に多い。こういう経験は非常に多い。だけど間違った経験もある。正しくない幻もある。どうして正しくない幻の方をほっといて、正しい幻の方だけをなぜ取り上げなければならないか。それが困る。私は、夫人が嘘をついてないことを信じたいけど、たくさんの間違いがあるんじゃないか。人間はいろんな夢を見る。だけどその夢は、現実に照らし合わせてみれば正しくない。それで、その間違いな方をほっとく。偶然当たった方だけをどうして諸君は取り上げなければならんのか。」と答えた。
もうひとり若い女の人がいて「私は、先生のおっしゃることは間違ってると思います。」と言った。ベルグソンはそばで聞いていて、私は娘さんの方が正しいと思ったと言う。
これはどういうことか。講演でこう説明している。学者は、どのくらい深く自分の学問の方法にとらわれているかということだ。立派な一流の学者であるほど自分の方法を堅く信じている。それで、知らず知らずのうちに方法の中に入って、とりこになっているものだ。だから具体性に目をつぶってしまう。医者は、その夫が戦死した夢の話を聞くとその夢は正しいか、正しくないかという問題に変えてしまう。その夫人は問題を話したんじゃなく、経験を話した。夫人にとっては、嘘か本当かという問題ではない。その経験を主観的だっていう。人間は経験する時に、主観的であるか客観的であるかなんて考えてない。夫人は確かに見た話を、夫は倒れたか倒れなかったかという問題にすり変えてしまう。もしも、すり変えれば倒れた場合の数と倒れなかった場合の数を比較しなきゃならんじゃないか。そうすれば間違った場合の数の方が無限に多い。当たる方が本当に少ない。そしたらそれはただの偶然じゃないか。こういう結論が出るじゃないか。なぜそれは偶然だって結論が出るかっていうと、夫人の話をそっくりそのまま夫人の経験を具体性を信じないで、はたして夫は死んだか死なないかという抽象的問題に置き換えるから、そういう結果が起こるんだと、こう言うんです。
べらんめぇ口調の講演は耳に心地よく、
何となく、頭がよくなった気分。
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