涼しい夏の夜の鉄人
東京の
連続真夏日の記録も
40日で止まった8月15日。
しばらくの疲れが残っていたのか、
目が覚めてから何もやる気が起きなくて
日が沈んでから、買い物がてら散歩に出た。
蝉の声はもうしない。
畑の中に微かな虫の音が聞こえた。
新聞はオリンピック一色。
「59回目」っていうのは、中途半端過ぎるようだ。
来年にはきりのいい数字が待っている。
オリンピックもかぶらない。
1945年の3月10日。
その日、父の祖母は南千住の病院にいたという。
生まれて1歳になる娘を病院に連れて行き
病院に泊まったその日に、大空襲に見舞われた。
翌朝、病院をのこして、街は全て焼けた。
東京の下町方面の眺めは、見晴らしが良かったそうである。
そして亡くなった娘を背負って、
浅草の家まで戻ったのだが
その時、どうやって家まで帰ったのだか
とんと思い出せない。
道の途中には、馬車を曳いていた馬が丸焼けになっていた。
明くる日、その道を通ったら、馬はきれいに骨だけになっていた。そのことははっきりと覚えているのだが、という。
母方の祖母は、以前にも書いたが
帝国ホテルに勤めていてルームキーパーをしていた。
戦後、ミズーリの船上で降伏文書の調印をする
当時の外相・重光葵の部屋の担当に長いことなっていて
これからマッカーサーと相見えるという日の
重光の帽子に、お守りを入れた。
その祖母は重光氏から御前会議の様子を伝え聞き
その時、「陛下は立派なお方だ」と感じたそうである。
26歳の
戦争体験といえる
わずかな体験である。
イラク派遣だとか憲法改正だとか自虐史観がどうとか
そんなことにとやかく言うつもりは毛頭ないが、
そういう体験をした、多くの多くの市井の人が
未だにいることを頭の隅に置くこと、
そしてそれを正しく思い出すことが
大変重要な気がしてならない。
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