鉄人28ミリ
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鉄人方丈記:その1



【原文】
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。

住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

『方丈記』(青空文庫より)

【訳文】
川の流れは絶えず「そのまま」である。しかし、流れている水は「そのまま」ではない。流れの淀みの中で、泡は消えては現れ、その場に留まらない。

世の人々と家々とも、同じようなものである。たとえば京都の街に軒を並べる貴賤の家々は、俯瞰してみると長年のあいだ変わらないなあーと感じるけれど、「そうなの?昔っからそのまんまなの?」と地元の人に聞いてみると、昔っからある家なんてごく僅か。去年壊れて(焼けて)今年作った家だったり、昔は豪邸だったけど今じゃ小さな家になってたり。

さらにその家々に住む人も同様だったりする。繁華街なんかだとどこでも人が溢れている。でもどうだろう、昔からその人混みの中で闊歩している人など、2〜30人に1人2人がいいところだろう。「朝に死に、夕に生まれ…」なんていうわかりきった道理なんてのも、さっきの水の泡に似ているわけです。

人はどこから来て、どこへいくのか、そんなことは誰も知らない。また、家にしたところで、悩みのタネになる箇所や、ほれぼれする箇所は、人によって全然違う、誰も伺い知れないんです。

人と家とが常に入れ替わり、そしていつの間にか無くなってしまう様子は、朝顔の花と花に付いた露の関係みたいなものです。露が落ちて朝顔の花が残る。でもその花は翌朝には枯れてしまう。逆に、朝顔の花がしぼんでも露が残っていたとしましょう。それにしても露は夜を待つことなく、蒸発してしまうのです。

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方丈記 (岩波文庫)

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