鉄人0.25坪観劇記
神楽坂のdie pratzへ「畳半畳 vol.2」を観に行く。
柊アリスさんからいただいたDMを片手に、
神楽坂駅を出て、西五軒町方面へ坂を下る。
この辺はとても雰囲気がいい。静かな街だ。住みたいものである。
写真はインターバル中。
VJネタとしては使ったことがあるのですが
生で観るのは初めてな、コンテンポラリーダンス。
柊アリス『ひと科ねこ草』
開演時間からやや遅れて暗転が始まる。
暗闇に慣れた瞳孔が、
ようやく薄いヒカリを感じ始めると
固い音の曲が流れる。
同時に、スポットライトは網にくるまれ、横たわる人を照らす。
人がもがく。
それは網から出ようとする意志なのか本能なのか。
曲はノイズのような音となり、
網を剥いだカラダは、緊張する四肢を頼りに、
生まれたての仔鹿の如く立ち上がる。
ノイジーな音を聞きながら、
人間が胎内から出てくる時ってどんな音を聞いているんだろう
という思いが浮かぶ。
動きに見入る。
カラダの動きに対する緊張感。
自分の身体を動かすときに、どれほどの注意を払っているだろうか?
目の前の演者程に、自らの身体に意識を巡らせたことはあっただろうか?
以前、上野で「無著・世親像」を観たときの感覚が思い起こされる。
小林秀雄が、梅若の能楽堂で當麻を観たときのこととして語っている。
「老尼が、くすんだ菫色の被風を着て、杖をつき、橋懸りに現れた。
真っ白な御高祖頭巾の合い間から、灰色の眼鼻を少しばかり覗かせている…
(中略)
どうして、みんなあんな奇怪な顔に見入っていたのだろう。
念の入ったひねくれた工夫。併し、あの強い何とも言えぬ印象を疑うわけにはいかぬ。
化かされていたとは思えぬ。何故、眼が離せなかったのだろう。
この場内には、ずい分顔が集まっているが、眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそうではないか。
どれもこれも何という不安定な退屈な表情だろう。
そう考えている自分にしたところが、今どんな馬鹿々々しい顔を人前に曝しているか、
僕の知った事でないとすれば、自分の顔に責任の持てる様な者はまず一人もいないという事になる。」(小林秀雄「當麻」より)
あの無著像の顔の様に、くっきりとはっきりとした顔は、
観ている観衆の顔と対称的である。
そんな感覚が、思い起こされた。
初めて観るタイプの身体表現は
文章を読解するのと同時に、
文法を頭で組み立てるような
そんな頭の使い方をさせてくれた。
あと、忘れちゃいそうなのでメモ書きとして。
富岡千幸さんのダンス。
人間の眼って、動きのないものを長時間見るのは不得手という話がある。
文字をじっと見てると、全体性を失って個別のみ認識してしまうゲシュタルト崩壊が起こってしまうのもそのせいらしい。
で、
この日の富岡さんのダンスは、動きを極端に遅くして表現するという手法。
動きを見て、文法を構築して、何某かの意味を咀嚼しようとすると
動きから得られる情報が不足して(動きのスピードが遅いので)、
咀嚼出来なくなってしまうような
不思議な感覚に見舞われた。
PCがCDからのデータをミスリードする時ってこんな感じかも知れない。などと。
いや〜。初めて観るものって面白い!!
観劇ジャンルが増えて嬉しかった、神楽坂の夜でした。
アリスさんありがとうございましたー。
Leave a Comment